奨学金を借りてまで大学へ行って仏教を学んでもいいですか? ・人の不幸には圧倒的な差がある。→どうしようもない、心の持ち方一つで変えられるものではない、不幸は不幸。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 ●その上、「幸せになってね」と声を掛けてくれた 死別直後は、化てでも戻ってきて欲しいと思いますが、今は彼が迷わず笑顔で成仏することを そして搾取した人達の方が贅沢できます。 私の知識不足で大変恥ずかしいのですが、基本的な意味合いはすべて調べました。が、お坊様から見て、それぞれの意味合いやアドバイス?を頂けるとありがたいです。

二度目の相談です。 「空」だと知ることに何の意味があるのでしょうか?お坊さんからの回答 4件回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。ドーナツの穴みたいなものと言われます。あるけど無い、無いけどある。ドーナツが大きければ穴も大きい、小さければ穴も小さい。オールドファッションの穴より、チョコファッションの穴の方がちょっと高く見える(^^) もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? シャ家族様hasunohaに参加させて頂きまして以来、この問答にていよいよ500回答となりますが、この間、拙生の取り組んで参りましたテーマとも言えますのが、まさに「空」、そして「縁起」でございました。仏教は、「智慧と福徳(方便)」を両輪として、確かに修習していくことが求められます。その中でも、智慧の開発における最大の要諦が「空と縁起」の理解となります。「物質はあるのに空である」とは、般若心経の「色即是空」のことを言及されているのではないかとお察し致します。しかし、それは、次の「空即是色」という理解も併せて行うことが必要となります。もちろん、「空と縁起」の理解は、非常に難しいですが、とにかく、私たちは、般若心経の中にも出て参ります、「顛倒夢想」の中、あるいは難しい用語となりますが、「倶生諦執」、「有染汚無明」、「二(人我執と法我執、倶生我執と分別我執)我執」の中にあり、常に誤った認識状態で、モノ・コトを実体視執着してしまい、それで迷い苦しむことになってしまっております。「空」というのは、つまり、無実体・無自性・無自相ということなのですが、要は、そのモノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているモノ・コトとして有り得ているのかどうかということであります。もう少し詳しく述べるならば、他に(例えば、要因や条件等に)依存せずに独立自存として成立しているものが果たして有り得るのかどうかということを考えてみる必要がございます。更に分かりやすく述べるならば、もしも、他に依存せずに独立自存として存在するものがあるならば、一応、この宇宙の始まりと言われているビッグバン以前からも、それはそれとして存在していなければならないのであります。もしも、シャ家族様のその現在の心身が実体として有るとするならば、その現在の心身そのものが、ビックバン以前から実体として有るということにもなります。しかし、もちろんそんなことはあり得ないのですが、その理解を一つ一つに及ぼしていくことで、これで間違いないという心底からの了解が必要となります。字数制限の関係上ここまでにて、関連の過去問答も是非ご参照下さいませ。川口英俊 合掌「空」は、竜樹尊者に深く説かれて以来、それを表そうとして、 ただし上記のこれらは、あくまで小生の感じるままのものであります。空を感じるか、あるいは知ることに意味があるかどうかというのは、 報われなくてもいいから、少しは良い方向に向かいたい仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。 よろしくお願い致します。 しかし、彼のご家族には本当に感謝で… そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。

ストックホルム症候群や共依存など他人に優しくしない方が人は恩恵を得れる生物のようです。 私は中学生の頃アルボムッレスマナサーラ長老の本を読んで仏教に興味を持ちました。 ・人に与える人より搾取する人の方が富を得れる。不幸量は下がる。 原語はシューニャ(人間は、様々な要素が集合してできたものであり、それ自体の本質は存在しないとするのが人空。 何となくいいなと思った程度で作品を作ってしまって良いのでしょうか? これらのもとには、おしゃかさまの「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」 しかし他方、中国の文献では「無」はしばしば「空」とも対偶して、仏教的な般若の空義が老荘的な無義と交差していった。たとえば涅槃を「無為」と訳し、真如を「本無」と訳すような、仏教の中心概念を老荘でつかまえるということも始まった。

といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 仏教 → 空、道教 → 無。 結局、無と空は同じものであった訳です。 やはり「色即是空空即是色、この世の全ては無であり空である」、これで正しかったってことで安心しております。 ありがとうございます。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 お通夜、お葬式を終え、今は四十九日を待つばかりです。 この福寿草に、ほとけが満ちてい …