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長編ドキュメンタリー映画(90分)「緑林の人~満州馬賊王・小日向白朗~」○中国国歌『義勇軍行進曲』のモデルが日本人であることは、あまり知られていない。中国名『尚旭東』(シャオ・スイトン)。中国民衆からは、伝説の英雄『小白竜』(シャオ・パイロン)と呼ばれた馬賊王・小日向白朗(1900年~1982年)、その人である。新潟県三条市出身の白朗は戦前の満州を中心とする広大な荒野をかけめぐり、一時は、満州馬賊の頭領として7万とも8万ともいわれる配下を引きつれ何度もの修羅場をくぐりぬけてきた。○そんな白朗のモットーは、「義気千秋」「除暴安良」。義侠心を大切にし、暴力を排して良民を助ける心。その思想的バックボーンは、日中の真の友好を願う『アジアは一つ』という大きな理想。日本軍と中国軍の間に立って、両者の融和に務め、日中戦争の前...小日向ドキュメント映画企画意図 小日向:小日向側の主張について (11/01) セリ:強化イベント 最後 (10/25):強化イベント 最後 (09/16) 小日向:aa の最近のまとめと状況 20150505 (05/08) せり:aa の最近のまとめと状況 20150505 (05/06) 最新ト … 昨晩テレビを見ていたら「我が国の生命線」などという言葉が聞こえてきました。そう満州のことです。戦後生まれの私にとって、生まれた時にはすでに満州国は存在しなかったにもかかわらず、満州という言葉を聞くと、なぜか「故郷の香り」がするのです。なぜなのでしょうか。私は3人兄弟の末っ子。長男は日本で生まれ、おそらくですが、昭和16年か17年ころに両親と3人で満州に渡ったのです。その地で長女が生まれました。戦後、おそらくですが昭和21年のころ、引き揚げてきたのです。死ぬような過酷な環境の中で、おそらくですが、ソ連兵だけでなく一部の中国の人たちからも逃れるようにして帰ってきたのでしょう。日本の港についてからも、長女が海に落ちそうになったり、はぐれてしまいそうになったり・・・・等々いろいろあったようです。つまり、私の姉は満州国の...満州、見果てぬ故郷
小日向白朗学会永久名誉顧問朽木寒三先生の葬儀お通夜5/28日18時から告別式5/29日10時から船橋馬込斎場にて滞りなく終わりました。29日の告別式では、しめやかに日蓮正宗に法り葬儀が行われ、僧侶と参列者との題目唱和、御焼香。そして弔電が読み上げられ、題目三唱をさらに唱和しました。最後に、喪主妻の水口マス子様より涙深いお言葉がありました。最後のお別れでは、樒(しきみ)を参列者とご家族、親戚で、安らかな永眠につかれた先生に供えさせて頂きました。式と式との間には、奥様とご家族から直接、肺炎で闘病中のお話をお伺いしました。また小日向白朗学会の研究報告を会員としてお墓に報告しに参らさせて頂くことも話させて頂きました。なお、日蓮正宗に法り、ご本尊の写っている葬儀の様子は撮ってはいけないということですのでありません。朽木寒三先生の葬儀「馬賊戦記」の朽木先生が安らかに永眠されました 昭和14年の暮れ近く関東憲兵隊司令官も務めた三浦三郎はこういった。「小日向君、上海で一仕事してくれんか」。これが金家坊99の活躍の始まりであった。因みに三浦少将は1893年生まれであり、白朗より七つほど年上になる。小日向の活躍を評価していた人物である。条件付きでこれを受けた白朗は魔都「上海」の謀略戦、諜報線の真っただ中に飛び込んでいったわけである。当時、青幇三大行として名をはせていたのが「杜月笙」を筆頭に黄金栄、張嘯林であり、彼らが大活躍していたというか、好き放題の所業を展開して一般庶民を苦しめていた。藍衣社、特務政治委員会、憲兵第三団など蒋介石一派のテロ集団やもともと日本軍隊によって承認されていた中国国民党特務委員会特工総部、いわゆるジェスフィールド76号などなどが、三つ巴、四つ巴のやりたい放題でほぼ無政府状...金家坊99号にちなんで 小日向白朗1982年(昭和57年)1月5日午前一時四十分死去の記事出典新聞名不明白朗氏と同郷諸橋喜八氏から提供社会・政治問題ランキング国際政治・外交ランキング政策研究・提言ランキング偉人・歴史人物ランキング戦史ランキング歴史ランキングにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村小日向白朗1982年(昭和57年)1月5日死去の記事 朽木寒三先生の馬賊戦記の最後の部分ですが、死刑を目前にして生きながらえることに腐心していたころ・・・・・(馬賊戦記から)こうして、12月17日、もう夕方6時過ぎである。廊下の一番出口のところで、看守の大声がきこえた。「シャンシュイトン」と呼ぶ。「イヨーッ」というのが、こっちの答え方だ。すると相手は、何とかかんとか-っと叫び返してきた。白朗は片方の耳が悪い。左の方角からくる声をよく聞きとることができない。それでも言葉の調子で、「開廷-ッ」と言われたような気がしたがそれには少し時刻がおかしい。・・・・・・・・といったいきさつが書かれている。つまり、これが、釈放の日だったのだ。最後の質問は「あなたの国籍は、ほんとうはどこですか」であった。「日本です」と答えた白朗、死刑を免れた瞬間であった。と同時に、私には馬賊を捨てた...白朗、馬賊を捨てたその時 小日向白朗学会第一回報告会が平成最後の日4月30日午後2時から事務局新宿区住吉町新宿スパイアビル7階で行われました。報告会参加者は、並木正徳代表他吉田悦夫田中昭雄湯澤利明オブザーバーとして赤井照久氏と総会にも参加して頂いた諸橋喜八氏も御出席して頂けました。さらに並木会長のお知り合いも参加されました。学会、年次決算報告が報告され、次期年度の方向性と目標が話され、今後の学会の運営を各委員が意見を述べました。また赤井照久氏からは、雑誌「丸」で記載した小日向白朗氏の研究を実証をもとにして突き求めた白朗氏の実像を語って頂きました。また白朗氏が戦中に語った対談が本または雑誌で有り、それを公共図書館で借り読んだという話をして、この資料を知らなかった会員はびっくりした次第ですー。更に、白朗氏と同じ出身の諸橋喜八氏も地元三条市で...小日向白朗学会第一回報告会が平成最後の日に行われました。 コロナ禍で世界が凍り付いていくようだ。私には「とりあえず耽黙せよ。時が来たら起きよ。」と言われているように思える。黙して語らずとも時が来れば自然と起つ。今はコロナウィルスを過ぎ越せ、と。過ぎ越してのちに復活の日が来ると。ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によってぼくは廃人であるそうだ(吉本隆明、廃人の歌)と詠った思想家は8年前すでにこの世界にバイバイしている。ある意味、よい時期にに逝ったのではないかとも思えてくるが、健在だったらコロナウィルスをなんと表現するだろうか。ただ、黙って身を躍らせるようにして生を図らんとするだろうか。彼が発言しても世界は凍り付くことはなかった。真実ではなかったのか。而して今、真実を云々するときではない、と思う。今はただ洞の中に籠って耽黙するのみが良かろうかと...耽黙してから起きよ 昭和13年5月7日の日記です。第10師団、第14師団、第5師団の位置がはっきりわかります。第16師団が増員されていることも書かれています。この中に多くの日本人が存在していたのだと思われます。何人くらいなのでしょう。その後方にいたと思われる父の周辺でも戦死者が出ていました。芦構橋事件の翌年は拡大一直線の時だったのでしょうか。この現場、どなたご存知の方がいたらうれしい限りです。その時白朗はおそらくですが、興亜挺身軍を組織して関東軍の意に沿った行動をとろうとしていた時、その関東軍に目の前で裏切られ、つまり「武士に二言あり」どころか武士にあるまじき関東軍による『裏切り』に会っていたころのことでしょう。(文責吉田)従軍した父のお話の第2弾です1件〜30件テーマは同じ趣味や興味を持つブロガーが共通のテーマに集まることで繋がりができるメンバー参加型のコミュニティーです。