「葵」の意味. 裏葵(うらあおい) 4. 徳川家の家紋「三葉葵(みつばあおい)」でも知られ、和をイメージする落ち着いた品格がある漢字。誠実で気品のある人に成長して欲しいと願って。 〔9〕河骨紋の「三つ河骨」 松平三つ葵(まつだいらみつあおい) 6. 葵の丸(あおいのまる) 5. 三つ葉葵 ・三葉葵 ・三つ葵 ・三葵 ・葵巴 (みつばあおい・みつばあおい・みつあおい・みつあおい・あおいどもえ)は日本の家紋「葵紋」の一種で、葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。 通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。 二葉葵・賀茂葵(ふたはあおい・かもあおい)- 賀茂氏 2. 『日本家紋総覧』には、『改正三河後風土記』より酒井家に由来する説、『本多家譜』より本多氏と交換したという説、『三河後八代記』の「本多氏覚書」より家康が自ら考案したという説、ほかに松平氏を継ぎ、その家紋を踏襲した、という説を掲載している。 豊臣家が滅んだ後、外郭が、「丸輪(丸)」であるもののほかに、「隅切り角」や「隅切り折敷」(守山三つ葵・西条三つ葵など)のものや「五環」、「菊輪」であるものもそういう。いずれも、徳川一門の使用紋であるが、由来には、本多家に由来する説と酒井家に由来する説、松平家の元々の家紋であるとする説、などがある。 紀州三つ葵(きしゅうみつあおい)- 紀州徳川家 3. 〔11〕本多立ち葵 会津三つ葵(あいづみつあおい)- 会津松平家 7.
徳川葵(とくがわあおい) 2. 花付き二葉葵(はなつきふたはあおい) 3. 徳川家の家紋といえば、時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のおかげで三つ葉葵であるということを知らない人の方が少ないでしょう。印籠や刀の家紋をひとめ見ただけで徳川一族と分かるのは、江戸時代には三つ葉葵の紋が徳川一門にだけ許された権威ある紋だったからです。三つ葉葵の紋は、いつから徳川家が独占するようになったのか、そしてそれはどんな由来の紋なのかを見て行きましょう。三つ葉葵紋は、もともと徳川家のルーツである松平家の紋として使われていました。 そもそも葵紋は、京都の賀茂神社の神紋でした。賀茂神社の神紋は徳川家のような三つ葉葵ではなく、葉が二枚の二葉葵ですが、葵紋の意匠の元になったフタバアオイは、その名の通り葉が二枚です。そのため、紋としては二葉葵が古く、そこから実在しない三つ葉葵が派生したと考えられています。賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の二つの神社からなる賀茂神社は、古代氏族の賀茂氏の氏神を祀る神社で、葵紋を使う家には賀茂氏の後裔が多く、苗字も賀茂だけではなく、加茂、加毛、鴨とバリエーションも多く存在します。By: 国学者の賀茂真淵や「方丈記」で知られる鴨長明らも、この賀茂一族に属した人物なのです。三河武士、特に松平家が葵紋を使ったのは松平氏の三代目信光が賀茂氏を称していたためであり、またその領地も三河国加茂郡松平郷と加茂に由来する土地でした。 一口に葵紋、三つ葉葵紋と言っても少しずつデザインが違い、その種類は非常に多いのです。徳川家康が将軍になってから徳川将軍家の家紋として用いたのは「三つ葉左葵巴の紋」と呼ばれるもので、丸の中の三枚の葵の葉のつけ根が巴紋のように少しカーブしています。 徳川家康が将軍になると、朝廷はこれを懐柔する方策のひとつとして、天皇家の紋として権威のあった桐紋を下賜しようと謀ります。桐紋は足利氏、織田氏、豊臣氏と、天下を手中に治めた武家に紋を与えてきた伝統があるので、徳川家にも桐紋を与えることで朝廷の権威を確認しようとしたわけです。 しかし、家康はこれを固持して、逆に葵紋を菊紋、桐紋のような権威ある紋にしようとします。このため、天皇家とそれに連なる者しか使用できなかった菊紋、桐紋を自由に使えるようにするとともに、葵紋の使用を制限します。 つまり、葵紋と菊紋、桐紋の地位を置き換えたわけです。この結果、元々葵紋を使用していた松平の一門は、葵紋の使用を遠慮して別の紋を使用するようになり、三つ葉葵の紋を使えるのは将軍家とその一門だけとなりました。 特に「三つ葉左葵巴の紋」は将軍葵と呼ばれ、将軍家と紀伊、尾張、水戸の御三家しか使えない権威の象徴となっていきます。 一方、菊紋、桐紋は和菓子の標章に使われるまでに一般化し、それと共に朝廷の権威は失われていくことになるのです。三つ葉葵の紋を徳川家以外が使用するのは、当初は遠慮や控えるという形で暗黙の了解でした。 しかし、家康の死後、幕府の権威を維持するために葵紋の使用に関する規定も次第に厳格になっていきます。五代将軍綱吉の時代には、将軍家の権威を高め、徳川御三家に制限を加えるため、衣服以外の武具、調度などに将軍葵を使うことを禁じる方針が立てられます。 そして、八代将軍吉宗の時には正式に、三つ葉葵の無断使用が禁じられるようになるのです。このように三つ葉葵の使用を制限する一方で、元禄7(1694)年には将軍綱吉の命によって、葵紋のルーツである賀茂神社の復興策が推進されます。 賀茂神社の賀茂祭りは応仁の乱以来200年間途絶えていたのですが、これを復活させるとともに名称を葵祭と変えさせます。三つ葉葵を将軍家の紋とし、由緒正しき賀茂神社の祭礼を葵祭りと呼ばせることで、葵紋の権威を高めようとする方策だったのです。こうして三つ葉葵の紋所は、かつての天皇家の菊紋に匹敵する権威の象徴として君臨することになるのです。Copyright © 「葵」は、アオイ科の植物を表す漢字です。一般的にただ「アオイ」とう場合は「タチアオイ」という種を指すことが多いのですが、漢字ができた当時は「フユアオイ」を指していました。その植物は太陽の光に向かって傾く特徴があり、漢字の成り立ちも「アオイ」の読みもその性質から生まれました。「くさかんむり」の下にある「癸」は太陽で方位を知るための器具のことを表しており、「太陽の方向に向かって成長する植物」を「葵」の文字で表現しているのです。そして太陽に向かってお辞儀をす … 戦国時代に利用された家紋『三葉葵』。家紋の画像や読み方、利用している武将・大名、込められた意味など徹底紹介。戦国ガイドは日本唯一の戦国総合サイトです。 丸に三つ裏葵(ま … 丸に三つ葵(まるにみつあおい)- 徳川氏 - 松平氏 - 可睡斎(寺紋) 1. 三つ葉葵紋は、もともと徳川家のルーツである松平家の紋として使われていました。 松平家だけではなく、本多、酒井といった三河武士団の中にも葵紋は多く、本多家や酒井家が松平家よりも先に葵紋を使っていたのではないか、という説もあります。そもそも葵紋は、京都の賀茂神社の神紋でした。賀茂神社の神紋は徳川家のような三つ葉葵ではなく、葉が二枚の二葉葵ですが、葵紋の意匠の元になったフタバアオイは、その名の通り葉が二枚です。そのため、紋としては二葉葵が古く、そこから実在しな … 1. 図〔10〕は、「二葉葵」の右側に1つの葉があることにより、「右離れ立ち葵」(みぎはなれたちあおい)ともいう。この図案のものは、ほかに、下部に流水を描いた「立ち葵に水」、2つの葉の間に花を描く「花立ち葵(はなたちあおい), 左側に一つの葉がある「左離れ立ち葵」(ひだりはなれたちあおい)も存在する。フタバアオイとは別の植物で水草の〔10〕立ち葵 『肖像画等では〔1〕徳川葵(江戸初期)〔2〕酢漿草紋御三家それぞれでは、葉の模様(芯)の数の違いなどがある。同じ将軍家のものでも徳川三代までが一枚あたり33本で徐々に減っていき慶喜の時には図〔4〕のように13本になっている。また、その、〔3〕徳川葵〔4〕徳川葵(江戸後期)〔5〕水戸三つ葵の例〔6〕尾州中納言葵〔7〕会津三葵〔8〕丸に三つ裏葵 『『岡崎市史』は、もともと松平太郎左衛門家の紋であるとしている。また、松平親氏・泰親が松平村に入った後、賀茂明神に祈願し家紋とした、または、松平氏が賀茂源氏または賀茂朝臣と称して葵を家紋とした、という説を挙げている。『徳川世紀』には、三河国加茂郡に移り住んだ松平親氏の子孫が「加茂朝臣」を名乗り巴形に描いた葵紋を家紋としたとある。
葵は梅雨の時期から夏にかけて様々な色の花を咲かせる植物です。また、最近では生まれてきた女の子の名前にもよく見られるほど人気があります。この葵という植物ですが、どのような特徴や花言葉があり、その花言葉は子供の名づけの際にどのくらい似合うものなのでしょう。