病原体(日本住血吸虫)の発見と感染経路の解明、そして中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の予防という観点から見れば非常に大きな成果であった。しかしその一方で、すでに罹患してしまった患者に対する治療は困難を極めた。日本住血吸虫は血管内に寄生するタイプの寄生虫であり、消化器官に寄生する研究者たちは、血管内部の寄生虫を駆除するためのさまざまな研究を始めた。三神による300人以上の患者を対象にした約半世紀後の経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことはなく、罹患者に山梨県の地方病研究所では1910年(明治43年)から翌年にかけ、山梨県医師会が主体となって1911年(明治44年)の甲府盆地における郡部別日本住血吸虫症検診成績表を下記に示すが、患者数(総合計)と肝臓、脾臓肥大・腹水患者の人員合計数が一致しないのは、肝臓、脾臓肥大患者中に日本住血吸虫症とは確実に診断できないものが含まれているためである初めて行われたこの調査により、罹患率の高い地域に偏りがあることも分かった。罹患率が異常に高かったのは、以下に流行末期20年間にわたる市町村別患者数を示すが、これは山梨県内の各医療機関において地方病と診断された各年度ごとの患者実数で、新規感染者の数ではない。また、昭和30年代以降の流行末期には腹水がたまる等の重症患者はまれになり、同40年代になると罹患者に感染したセルカリア匹数も少数になり、便中に虫卵を見つけることが困難になったため、より精密な皮内検査等によって罹患者の確認が行われた。地方病は、ミヤイリガイの生息する河川や水路などで直接水に触れることによってセルカリアに感染し罹患する。よって、水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになる。しかし、仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能なため、子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら小学校2校のしかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫のライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。複雑な感染メカニズムを冊子の内容は、地方病が水中の病原虫(セルカリア)を介して皮膚から感染する病気であること、この病原虫がミヤイリガイという小さな巻貝に潜んでいるため、川で遊ぶのは非常に危険であることを、子供にも理解できるように分かりやすく解説したものであった。また、小学生の興味を引くために3人の登場人物を配しストーリー性を持たせた、特にセルカリアの活動が活発になる夏場の河川での日本住血吸虫の中間宿主はミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的なしたがって、このように、1943年(昭和18年)11月3日には、家畜への感染を究明するために、東京高等獣医学校(後の農民への感染防止策として、農作業時にはできるだけ中巨摩郡西条村(現:中巨摩郡しかし、一向に減らない地方病に感染防止の難しさを感じ、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイのやがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925年(大正14年)に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され1933年(昭和8年)に健造が亡くなると、その遺志は娘婿である三郎によって引き継がれ、1947年(昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県をその後も三郎は、水田作業従事者に対する経皮感染を予防低減するための杉浦三郎は杉浦三郎だけでなく、この病気の解明や治療に取り組んできた他の郷土医や研究者は、地方病終息を見届けることなく三神三朗は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった、甲府市向町の盛岩寺にある杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に無言のまま長時間頭を下げていたという日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイであると解明されたことにより、ミヤイリガイの生息エリアが、そのまま地方病の流行エリアと完全に一致することが分かった。したがって、ミヤイリガイが生息する場所とは地方病の流行地、すなわち有病地ということになる。 中富町について以下5点の文献を主に用いた。 また、1950年(昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あればミヤイリガイが100%流出することが判明し、なお、当時行政区域外であったため工事ができず、コンクリート化工事のネックとなっていたこうして、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められた。コンクリート化に投入された予算は1979年(昭和54年)の段階で70億円に及びなお、撲滅事業が終了した1996年(平成8年)の時点で、地方病対策のためにコンクリート化された甲府盆地の用水路の総延長は、北海道水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、保卵者数は最盛期であった1944年(昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、1960年代から1970年代初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられているただしそれらの要因は、地方病対策だけのために意図的に行われたものではない。高度経済成長期における日本のさまざまなこれらの中で、果樹栽培への転換は甲府盆地の農業形態を大きく変え、今日見られるような山梨県では1952年(昭和27年)に、当時需要が高まっていたこの対応策として山梨県は、米や養蚕に替わる新たな県のブランドとしての農作物を検討した結果、ブドウやモモなどの果樹栽培に意見が集約された。甲府盆地は大消費地のこの果樹栽培転換は甲府盆地全体の農民に強い影響を与えた。先祖代々稲作を続けてきた土地ではあったが、同じく先祖代々苦しめられてきた地方病と決別するためなら反対する者などいなかった。1960年(昭和35年)の甲府盆地における果樹生産額は当時の価格で49億5千万円、これは山梨県全体の農業生産額の20%であり、全国水準の6.3%を大きく上回っていた甲府盆地では、1978年(昭和53年)に韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症感染の確認を最後に1985年(昭和60年)には、虫卵抗原に対するこうした経緯を経て、山梨県知事の1881年(明治14年)8月27日の旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得るなお、2014年現在も日本国内の複数の大学や研究施設などでミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の本体も、厳重な管理の下、ミヤイリガイと終宿主役となる哺乳実験動物と共に飼育され、人為的に生活環が再現継続されこうして、古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は多くの医師・研究者の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、世代を超えた多くの人々の努力により日本国内での日本住血吸虫症は制圧・撲滅された。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されていない。昭和町では、ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や鎌田川のゲンジボタル発生地(姿を消したと思われたホタルであったが、1987年(昭和62年)、昭和町内の川で突然大発生し、翌1988年にはホタル復活をめざす有志により『昭和町源氏ホタル愛護会』が結成され、会員らの自宅にホタルの飼育場を設け、生息環境の保全のため河川清掃などの活動が続けられている。さらに昭和町内に約4,000ヶ所ある下水道のまた2012年現在、釜無川や笛吹川の流域では、小学生など児童が参加するホタルの勉強会や幼虫放流会が行われている旧これは、当時の田富町民が総決起大会を開き、「地方病撲滅のためには、ミヤイリガイ繁殖の温床となっている沼を埋め立てるしかない」と決議したためである。臼井沼周辺住民や町議らが中心となり当時の田富町議会でも審議が繰り返され、1976年(昭和51年)3月、田富町は、山梨県議会議長宛に臼井沼埋立ての請願書を提出した。この動きに対して野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論し、同年4月に「臼井沼の開発について考えましょう」と題した、埋立て反対趣旨を書いたパンフレットを作成し田富町全戸に配布した。また、ミヤイリガイについてはコンクリート溝渠による防除に留め、沼の埋立ては避けるべきだと当時の山梨県知事一方、田富町を含む山梨県下の市町村で構成される山梨地方病撲滅協力会は、臼井沼の全面埋め立ての必要性を訴える陳情書を同年5月21日に田辺知事に提出した。翌々日の5月23日には臼井沼現地において住民200人以上、その他関係者らが参加し「田富町地方病撲滅町民総決起大会」が開催され、会場の各所には「一に健康、二に埋立て」、「鳥より人間優先」などの対応を迫られた行政側(山梨県)が出した結論は臼井沼の埋め立てであった。同年6月22日の定例県議会で田辺国男知事は「その後、最終的に臼井沼は冒頭で記述した通り、山梨県で地方病と呼ばれた日本住血吸虫症は限定的とはいえ日本国内の他地域でも流行が見られたが、日本国内ではいずれも山梨・広島・福岡・佐賀など日本国内各地における日本住血吸虫症対策は、研究者間や医師間のレベルでは各種論文をはじめとする学術的観点から地域を越えた交流があり、解明期当初より活発な意見交換などが行われ、当疾患の原因解明に大きく寄与したことは前述した通りである。しかしその一方で、主に地域農民により行われた殺貝作業など、現場の住民同士の意見交換が重要な民間レベルでの交流は戦前まではほとんど行われず、それぞれの地域ごと対策がとられていた。民間レベルでは通信、移動、情報の発信といった山梨で「地方病」、広島で「片山病」、福岡で「マンプクリン」と、離れた場所でそれぞれ別の名前で呼ばれ戦後の混乱も落ち着いた1953年(昭和28年)12月、山梨県、佐賀県、福岡県、広島県、岡山県の5県知事が日本住血吸虫症の有病地知事会を結成し、研究成果の交換などを申し合わせ第1回の会合は甲府市の舞鶴会館で行われ、各県が毎年持ち回りで協議会を開き、有病地の視察、対策や国への要望事項の取りまとめなど、互いに励まし助け合っていくことを誓ったこの第1回会合視察の際に、果樹園に転換された甲府盆地の土地利用を見た福岡県の職員は感心すると同時に、日住病全国有病地対策協議会は発足以来、関係各省庁への積極的な陳情を行い、寄生虫病予防法改正(水路コンクリート補助事業の期間延長)をはじめとする撲滅活動推進を果たし、各地の対策事業が落ち着いた日本国内の日本住血吸虫症が撲滅された今日もなお、アジア各地会談の冒頭、建国したばかりの佐々は会談直後、周恩来の計らいにより、北京医学院教授の鍾恵潤を案内役に紹介され、訪中医学団一行と一旦別れ、中国政府要人用の特別車両が連結された列車により10日間の日程で、アジアでのもう一つの日本住血吸虫症流行地その一人である旧フィリピン国内の日本住血吸虫症有病地における罹患率は、1981年の10.4%から1995年には約5%と半減させることに成功し、当時のフィリピン共和国厚生大臣、住血吸虫症は日本住血吸虫症以外にも、しかしながら、2015年のWHO(山梨県で終息宣言が出された2年後の橋本イニシアティブが出された後、日本の寄生虫学研究者や医師らの多くが寄生虫疾患対策のために世界各地へ出向き、その対策や治療、中間宿主貝撲滅活動などが継続的に行われている日本が世界の寄生虫対策の舵取り、イニシアティブをとる理由は、日本がさまざまな苦難を乗り越え、日本住血吸虫症ばかりでなく、数々の寄生虫病を制圧してきた経験を持つ以下、寄生虫学者である日本住血吸虫症は住血吸虫感染症の中で最も重症である。日本住血吸虫を発見した後に、その感染経路、中間宿主貝を発見したのは住血吸虫感染の中で日本が最初である。住血吸虫症が制圧されたのは日本が世界で最初である。住血吸虫症は世界の寄生虫感染の中でも重要な位置を占めている。したがって日本が日本住血吸虫症を制圧したことは誇るべき先駆的で歴史的な事実となった。これには日本の研究が大きな役割を果たしたことを記録しなければならない。研究論文は莫大な数に上がっている。日本語で書かれたものが多いので必ずしも世界に十分に知られているとは言えないが、それらの成果がもたらした結果が日本住血吸虫症の制圧に至ったことを明記する必要がある。
などである。 山梨県では、1933年(昭和8年)9月25日告示の「寄生虫予防法施行細則第2条ニ依ル日本住血吸虫病ノ有病地域指定」により、甲府盆地の10,023当初はミヤイリガイが多く生息していた水田のみが指定されたのではないかと推察されているが、いずれにしても対策以前には20,000ヘクタール近い有病地が存在していた。しかし、後述するミヤイリガイ撲滅事業により有病地指定面積は徐々に減少し、1960年・1961年・1974年の3回にわたり有病地の指定は順次解除され最終的に右に示す地図は1970年代の甲府盆地におけるミヤイリガイ生息地(有病地)の略図で、ミヤイリガイ生息密度を3段階で表しているこの地図からも分かるように、地方病は甲府盆地の西側で猛威を振るっていた。盆地東部の笛吹川沿岸から甲府市中心部を南北に流れる大正期には、甲府盆地各地の有病地水田において、少ない所でも1平方メートルあたり100匹は採取でき、ひどい場所になるとミヤイリガイが何層にも重なり、大正末期から昭和初期にかけ、新たな言葉、ことわざが再び甲府盆地の人々の口から出始めた。