今年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放送回も、いよいよ半分が過ぎようというところでしょうか。年末に「坂の上の雲」が放送されるので、11月で終了するでしょうからね。 おそらく、お江の死までがお話として放送させるでしょう […] 徳川家などと比べると浅井家は現代人には馴染みの薄い家系かもしれませんが、 実は彼らの家系は日本の歴史に大きく関わっています。 お江はその浅井家子孫の繁栄の鍵を握るキーパーソンです。 お江を巡る家系図 出典:Wikipedia お江は浅井長政とお市との間にできた娘たち三姉妹の三女です。 お江は、浅井長政とお市の方の3娘。姉に、豊臣秀吉の側室・淀君(茶々)、京極高次の正室・お初がおり「浅井3姉妹」として有名。最初は佐治一成に嫁いたが、豊臣秀吉によって離縁させられ、豊臣秀勝に再 … 戦国の姫、お江の家系図 . 当初、「江~姫たちの戦国~」用の系図はこれで十分かな、と思ったのですが、ちょっと時間ができたので新たに作ってみました。 豊臣秀勝役も正式に決まって、完子が登場する可能性もグッと高まったわけですし。 というわけで、今回は彼女の子孫に注目してみました。 つまり、江姫の浅井家、織田家の血筋は現在の天皇、皇室にもつながっているのです。 徳川秀忠と江姫の子供たち. 7人の子を授かった江姫ですが、 7人とも全てが江姫の実子であるかは不明な部分もあり、いまだ研究が進められています。 織田信長の血筋を引く、美人浅井三姉妹の三女、江姫。3度目の結婚で徳川幕府2代目将軍、徳川秀忠との間に7人の子供をもうけました。その中には3代目将軍、徳川家光もいます。今回は タップでお好きな項目へ:目次かの有名な長女は三人とも戦国の世に生まれ、激動の人生を歩みます。三姉妹の父、浅井長政と母の市は兄の織田信長・豊臣秀吉軍に攻められ自害します。浅井長政は織田信長の家臣でしたが、親交のある朝倉家を攻める織田信長に反旗を翻したためです。三姉妹は父と母亡き後、豊臣秀吉の政略結婚として様々な人生を歩んでいます。長女の茶々姫(のちの淀殿)は父母の仇、次女の初姫は豊臣秀吉の計らいでそして三女の江姫は2度の結婚を経て、 江姫は3度の結婚を経験しています。まず最初は豊臣秀吉の政略結婚にて、従兄弟にあたる織田信長の次男である尾張大野城(常滑市)の城主、佐治一成と結婚します。しかし、佐治一成が豊臣秀吉の敵方に味方したため、豊臣秀吉に離縁させられます。2度目は秀吉の養子(秀吉の甥にあたる)、丹波国亀山城主(現:京都府亀岡市)、豊臣秀勝と結婚します。しかし、この豊臣秀勝は朝鮮出兵の際、朝鮮国の巨済島(コジェド)で病死してしまいます。その後、3度目の結婚として、徳川幕府2代目将軍徳川秀忠の正室として7人の子供をもうけました。なお、江姫は2度目の結婚の際、豊臣秀勝との間に娘、完子(さだこ)をもうけます。この豊臣定子は後に関白となる九条幸家の元に嫁ぎます。豊臣完子と九条幸家の子孫が大正天皇皇后である貞明皇后であり、昭和天皇の母となります。つまり、江姫の浅井家、織田家の血筋は現在の天皇、皇室にもつながっているのです。 7人の子を授かった江姫ですが、7人とも全てが江姫の実子であるかは不明な部分もあり、いまだ以下、徳川秀忠と江姫の子供と言われている7人の人生の歩みです。長女である千姫は、わずか7歳で従兄弟である大坂の陣にて豊臣秀頼が自刃後、徳川四天王のひとり本多忠勝の孫、播磨姫路新田藩主、本多忠刻との間に、一女一男を産みますが、長男の幸千代はわずか3歳で病死します。長女の勝姫は岡山藩池田光政の正室となり、以降、岡山藩池田家の系譜は千姫の子孫となります。 二女珠姫は、徳川家と加賀藩前田家の政略結婚により、わずか3歳で前田利家の4男で3代藩主である長男の光高は、加賀前田藩3代藩主となり、以後、加賀前田家では江姫の血が代々次がれていくことになります。 三女勝姫は、徳川家康の次男で結城秀康の子である、夫、松平忠直は大坂夏の陣で、かの真田幸村を討ち取り戦功をあげます。しかし、褒美がなかったことに不満を覚え家臣、領民を殺すなど乱行が目立つようになります。心の病を発症し、妻である勝姫を斬りつける事件を起こし豊後へ配流となります。 四女初姫は、生まれてすぐに江姫の姉初の養女として京極高次と側室との間に生まれた京極忠高と初姫は結婚しますが、初姫はしかし、初姫が亡くなる時、夫である京極忠高はその振る舞いに激怒した父徳川秀忠は、葬儀一切を徳川家で行い、京極家の参列を許しませんでした。 五女和子は、12歳の時にこの興子内親が即位し、第109代天皇、明正天皇(めいしょうてんのう)となり、和子は天皇の母となります。明正天皇は、859年ぶりの女帝となりました。 長男家光は、父秀忠の跡を継ぎ、(なお、家光が生まれる前に長男・世継ぎとして長丸が生まれますがすぐに亡くなり、三代目将軍は家光となります) 次男忠長は、成人して駿河を領有したことからしかし、兄であり徳川3代目将軍である徳川家光との確執から罪を着せられ、自害します。 徳川秀忠には側室がいませんでした。江姫は夫徳川秀忠より6歳年上でもあり、秀忠が気を使ったとも言われています。しかし、徳川秀忠には大奥の下級女中である静(秀忠の乳母であった大姥の侍女)という女性との間に男子をもうけていました。この静との間の子供が信濃 高遠城主であった保科正光の養子となり、以降、会津藩主となった保科正之でした。保科正之は会津の産業振興で実績を挙げ、三代将軍家光や四代将軍の家綱に優秀な補佐として名を挙げました。 徳川秀忠と江姫の子供たちについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか徳川秀忠と江姫の子供たちは、と言えるのではないでしょうか。徳川秀忠については、他にも色々な記事があります。よろしかったらご覧になってみて下さい。 徳川秀忠の【完全版まとめ】についてはこちらをどうぞ。 お越し頂きありがとうございます。©Copyright2020 領民から「播磨姫君」と称されて敬愛された千姫は、1618年、22歳の時、初めての子・本多勝姫が誕生。 本多家の侍女らは千姫のことを「御姫様」、勝姫を「小姫様」呼んだ。 1619年には長男・幸千代も生まれたが、幸千代は3歳で急逝してしまう。 家系図の個人情報が漏れたりしませんか? 徳川秀忠は徳川家康の三男として側室・西郷局の間に天正7年(1579)に遠江国浜松の地に誕生します。母・西郷局はお愛の方と通称されることのある人物で、実家、三河西郷氏は室町初期には三河守護代を務めたこともある名家出身の女性でした。徳川秀忠の幼少期は乳母・大姥局によって育てられます。徳川秀忠が生まれて間もない、生後5か月の頃に長男・徳川信康が切腹し、次男・徳川秀康は豊臣秀吉の養子となったのち結城氏を継いだため、三河国の名家出身である西郷局を母に持った徳川秀忠は実 … 徳川家などと比べると浅井家は現代人には馴染みの薄い家系かもしれませんが、実は彼らの家系は日本の歴史に大きく関わっています。 タップでお好きな項目へ:目次出典:Wikipediaお江はお江の父親は、北近江の戦国大名です。浅井氏の3代目の当主でした。彼の妻は織田信長の妹であるお市。織田家と婚姻関係を結んで、信長との同盟を結び、浅井氏の全盛期を築いていました。お江の家族は、・・・・となっています。関連記事 >>>> お江は3度結婚しました。秀吉によって結婚させられ、離婚させられました。子供はありません。誕生した娘・秀忠との間には7人の子が生まれました。千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光(のちの江戸幕府第3代将軍)、徳川忠長(のちの駿府藩主)、和子です。このように、3度目の結婚でお江は 将軍との間に7人もの子供に恵まれたお江。その子供たちから続く家系は大変興味深いものとなっています。お江の長男・孫に6代将軍・家宣、曾孫に7代将軍・家継が続きました。しかし、家継はわずか6歳で亡くなったため、ここで家光系の江の子孫は途絶えています。さらに、豊臣秀勝との間に生まれたつまり、系譜は昭和天皇、明仁上皇、今上天皇に繋がり、その血は現代にまで続いているのです。昭和天皇、明仁上皇、今上天皇とそれ以降の現代の私たちが知る親王および内親王などの皇室の人々がお江の子孫となるのです。お江の次女である子孫たちに恵まれた前田家では、そのご養子縁組もなくお江の血が受け継がれています。もちろん、現在の前田家もお江の子孫となります。将軍秀忠の正室として7人もの子をなしたお江の他の子孫たちは、それぞれその後の歴史の中でも名の通った家系を継承していきました。しかし、政治的事情や子に恵まれなかったことから、途中でお江の血が途絶えてしまっているようです。第109代天皇である明正天皇の母となりました。明正天皇は、859年ぶりの女帝。皇族の中に徳川の血を残したくない後水尾天皇が、女性天皇は独身であるべきという皇族内の暗黙の了解を踏まえ、あえて娘を天皇として譲位しました。生涯独身の明正天皇には子はなく、ここでお江の血は途絶えています。 徳川将軍の正室となり、将軍の生母となったことが、お江が子孫を長く後世に残すことができた大きな原因です。簡単にまとめると将軍の母親だったお江ですから、徳川将軍家に子孫が残ることは考えられることですが、お江つまり浅井長政の血が現代の皇室にまで続いていたことは、驚きですね。お江の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> お越し頂きありがとうございます。©Copyright2020