羽生結弦の家族!父親が校長先生でそっくりな母親!(画像)姉のプロフ! 公開日 : 2018年3月1日 / 更新日 : 2019年1月17日 1994年12月7日生まれの羽生結弦さんは、宮城県仙台市にて誕生しました。 家族構成は、両親に姉が一人という4人家族です。 フィギュアスケート選手の羽生結弦さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。意外にもイジメに遭っていた高校時代や学業との両立に苦しんだ大学時代など、学生時代のエピソードも併せてご紹介いたします &nbs・・・ 四大陸フィギュアスケート選手権(韓国) 2013年 世界フィギュアスケート選手権(ボストン) 2位2017年 【ana公式サイト】ana所属のスポーツアスリート 羽生結弦選手についてご紹介します。国内航空券の予約・購入、空席・運賃の照会などはanaのホームページで。いろいろ選べるanaのおトクな運賃をご用意 … skatingjapan.or.jp羽生結弦選手は宮城県仙台市泉区の出身。羽生結弦選手は父・母・姉・結弦さんの4人家族。今の羽生選手の活躍は、ご家族の支えがあってこそなんですね。2014年のソチオリンピックでは、見事金メダルに輝いた羽生結弦選手。平昌オリンピックでの二連覇に期待したいです! 生年月日 1994年12月7日出身地  宮城県仙台市泉区身長   172cm体重   52kg血液型  B型学歴   早稲田大学人間科学部(eスクール)在学中 ソチ五輪、平昌五輪と見事2連覇を決めた羽生結弦(はにゅう・ゆづる)選手。聞けば、フィギュアスケート男子シングルで66年ぶりの快挙なのだとか。とにかくスゴイ羽生選手ですが、一体どのように育まれたのでしょうか?羽生結弦選手は、宮城県仙台市泉区の出身。実家は、県営七北田(ななきた)住宅というところにありました。羽生選手がスケートを始めたのは4歳の時。長野五輪が行われ、冬季競技の注目度が高まり、フィギュアスケートもブームになっている頃でした。4歳年上の姉がレッスンを受けていたのを見て“たまたま始めた感じですね”と羽生選手は振り返ります。しかし天賦の才は、早くもその片鱗(へんりん)を見せていました。幼稚園児にして、小学生が跳ぶ1回転半ジャンプを習得。スケートを始めて2年足らずで、2回転サルコーまでこなす驚異的な成長を見せていたのです。羽生結弦選手は、仙台市立七北田(ななきた)小学校を卒業しています。小学校2年の時には、ソルトレークシティー五輪が行われ、ロシアのヤグディンとプルシェンコの激突を見て、夢舞台への憧れを抱きます。ちょうどこの頃、新松戸アイスアリーナから都築章一郎コーチが仙台に移ってきて、小学校6年まで指導を受けることとなりました。しかし羽生選手はこの時期、早くもスランプに苦しみます。“同期の中で僕が一番、3回転をきれいに跳ぶのが遅かった”理由は体の成長が遅れたためですが、周りが次々と3回転ジャンプをものにしていくのが悔しくて仕方ありませんでした。しかし、都築コーチは羽生少年に卓越したものを見出していました。“とにかく感性がすごかった。曲をかけたとき、おじけづかずに対応できる。子どもにはなかなかできないことなんです。非常に積極的で、自分というものを持っていました”高学年になるにつれて体も出来上がり、ジャンプの精度も向上。小学校4年の10月に初出場した『全日本ノービス』で優勝すると、フィギュア関係者の間ではこう囁かれ始めました。“仙台にマッシュルームカットの天才がいる”小学校卒業までに3回転を全てマスターした羽生少年は、小学校の卒業文集にはこう綴っています。“五輪で金メダルを獲る…!”羽生結弦選手は、仙台市立七北田(ななきた)中学校を卒業しています。中学時代の羽生選手は、さまざまなスケートの大会に出るため、学校は休みがちでした。スケートの練習があるので塾にも行けず、普通なら勉強が遅れてしまいます。しかし羽生選手は、自分で問題集を買ってコツコツやっていました。自覚もあったのでしょうが、現在は中学校の校長を務める父・秀利さんの“スケートだけの人間になるな”という教えを守っていたのでしょう。遠征先にも参考書を持っていき、時間を見つけては勉強をしていた羽生選手は、遅れるどころか、成績は優秀だったと言います。また、学校に行ったときは、“休んでいるときに、みんなに迷惑をかけているから”と、掃除係などに積極的に取り組みました。スケートの実力から天狗になってもおかしくない年頃ですが、学校に来たらやるべきことは必ずやるので、友達にも好かれていたそうです。羽生結弦選手は、仙台市の東北高等学校を卒業しています。東北高校は、本田武史さん、荒川静香さんらを輩出した、フィギュアの強豪校です。羽生選手が高校1年生だった2011年3月11日。期末試験を終え、アイスリンク仙台で練習していたさなか、東日本大震災が発生しました。ライフラインはすべて止まり、実家は全壊指定。羽生選手の一家は、小学校の体育館に4日間、避難しました。ようやく電話がつながるようになると、母親の由美さんは横浜にいた都築さんと連絡をとり、“結弦をそちらで練習させてもらえないでしょうか”とお願いします。そして3月20日には、横浜で練習を再開した羽生選手ですが、“生きていくだけで精いっぱい。このままスケートを諦めてしまおう…”と、不安定な状態でした。関東圏のリンクの多くが閉鎖し、スケーターが横浜のリンクに集まってくるため、羽生選手の羽生の練習時間も限られます。しかし、そんな羽生選手を後押しするように、宮城県と仙台市は、アイスリンク仙台に、異例の営業再開を要請。再び地元で練習ができる喜びを味わった羽生選手。震災から1年後の2012年3月、世界選手権に初出場し、銅メダルに輝いています。羽生結弦選手は、現在(2018年2月)、早稲田大学人間科学部『eスクール』に在籍しています。実は大学生活『5年目』なのですが、さぼって落第した訳ではありません。早稲田大学に入学した年は、ソチ五輪を控えたシーズンだったため、金メダルをとるために、勉強を犠牲にしました。つまり、同じタイミングで入学した生徒に比べて、1年遅れをとっているのです。ちなみに、競泳の瀬戸大也選手は、早稲田大学の同学年でした。一足先に卒業してしまいましたが…(-_-)しかし、大学5年目の今シーズンは、平昌五輪と重なっています。平昌では見事金メダルを獲得した羽生選手。大学の方はゆっくり卒業して欲しいですね。震災後の世界選手権で銅メダルに輝いた羽生選手は、テレビのインタビューに笑顔でこう答えています。“被災地のために滑ろうと思っていたのですが、それは違うんだな、と。逆に、僕は、支えられている立場だったんです。応援されている立場。その応援をしっかり受け止めて、演技することがいちばんの恩返しだと気づいたんです。やっと自分のなかで、震災を乗り越えられたんだという気持ちになりました”日本中の応援を受けて、羽生選手の挑戦は、これからも続いていきます(^o^)丿羽生結弦選手は、8歳の時からファイテンのネックレスを愛用しています。そして、現在つけているモデルはこちら。留め具部分が“V字”になっていて、シャープな羽生選手の顔立ちにフィットしています。眺めているだけでも、羽生選手の気分が味わえますよ(^_-)[…] 羽生結弦の生い立ち~小学校、中学校、高校、大学…それぞれの時代 […]なんかコントみたいだなw そんな厳しい兄上も、やる夫が一年間一人暮らしできたことを褒めるんだから弟が可愛いんだろうな しかし、やる夫のまわりは良いキャラした人が本当に多い 羽生結弦選手は宮城県仙台市泉区の出身。 姉の影響で4歳の時にスケートを始め、小学6年生の時には既に「天才スケート少年」と呼ばれていた。 結弦という名前は「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい」という願いを込めて父親が命名した。 世界フィギュアスケート選手権(さいたま) 2位2020年 A.長所をうまく利用していたことだと思います。体の柔らかさをどんなことにでも生かそうとしていました。 四大陸フィギュアスケート選手権(江陵) 2位2018年 ソチオリンピック 個人 金メダル2015年 世界フィギュアスケート選手権(上海) 2位2016年 平昌オリンピック 男子シングル 金メダル2019年 その美しい容姿と圧倒的な技術力で、世界中のファンを魅了しています!そんなスター・羽生結弦さんのこれまでの生い立ち、出身校の偏差値、そしてフィギュアスケートを始めたキッカケなどをご紹介します!  1994年12月7日生まれの羽生結弦さんは、宮城県仙台市にて誕生しました。家族構成は、両親に姉が一人という4人家族です。結弦という名前は、「弓の弦を結ぶように、凛とした生き方をしてほしい」という願いがこめられ、父が命名しました。父は中学校の教員をしており、現在は中学校の教頭先生をされているようです。母はずっとパート主婦をされていたようですが、羽生さんのフィギュアスケート生活をずっとサポートしており、現在はカナダで一緒に生活をされています。姉は4歳年上で、8歳から18歳までフィギュアスケートをしていました。ダブルアクセルまで飛べる実力者だったようですが、弟のフィギュアスケート生活とその費用を支えるため、スケートをやめ、現在はアイスリンク仙台で職員をしているそうです。そんな羽生さんは4歳の時にフィギュアスケートを始めました。羽生さんがフィギュアスケートを始めたキッカケは、4歳年上のお姉さんがフィギュアスケートをしていたことが理由でした。なんでも姉の真似をしたがる可愛い弟だったようですね。また、2歳のころから喘息を患っており、スケートを始めたのも喘息を克服するためだったといいます。フィギュアスケートと言えばお金のかかるスポーツであり、多くは経済的に裕福な医師や経営者の子息が多い世界です。そんな中でも、羽生さんのご実家は普通のサラリーマン。経済的負担の大きいスケート衣装はすべてお母さんの手作りだったといいます。羽生さんをサポートするために家族一丸となり、スケート費捻出のために苦労もされたようです。   地元にある仙台市立七北田小学校に入学した羽生結弦さん。羽生さんが8歳の時に行われた2002年ソルトレーク五輪にて、ロシアのフィギュアスケート選手であり、世界チャンピオンだったエフゲニー・プルシェンコ選手の演技を見て心酔します。彼のようになりたいと憧れを持ち、彼のトレードマークだったマッシュルームカットまで真似をします。その頃、日本フィギュアスケート界での名コーチである都築章一郎氏の指導を受けるチャンスがやってきます。都築氏の指導を小2から受けることとなり、羽生さんの才能が一気に開花します。練習量は増え、友達とも遊べない。そんな羽生さんは、一時はフィギュアをやめて野球をやりたいとも言っていたそうです。ですが、才能のあった羽生さんは9歳で全日本ノービスBクラスの大会で見事初優勝を飾ります。小6のころには、ローカル局の番組で「天才スケート少年」として特集が組まれ、年齢的にも出場が可能となるソチ五輪で「金メダルをとる」と発言をしています。小学校を卒業した羽生さんは、仙台市立七北田中学校へ入学します。中学1年生のころには、ノービスクラスの選手ながらジュニアの大会である、全日本ジュニアに出場し、3位に入賞します。ノービスの選手がジュニアの表彰台にあがるのは、日本人男子初の快挙でした。そして、中学3年生の時、ジュニアグランプリファイナル、世界ジュニア選手権を制し、ジュニアで世界一となります。日本人男子としては初の中学生ジュニアチャンピオンでした。やはり天才は、少年時代からその才能がずば抜けていますね!   中学校を卒業した羽生さんは、仙台市にある私立・東北高校スポーツコースに入学します。東北高校スポーツコースと言えば、様々なスポーツ競技において強豪校として知られる偏差値42の学校です。高校1年生の時にシニアデビューをした羽生結弦さん。この年も着実に実力を上げ、四大陸選手権では史上最年少で銀メダルを獲得します。その年、羽生さんは地元・仙台にて東日本大震災を経験します。ホームリンクは被災して営業停止になり、自宅も被害を受け避難所生活を送るという不幸に見舞われます。ホームリンクが営業再開するまで、多数のアイスショーに出演して各地を転々としていた羽生さん。高校2年生の時には、全日本選手権3位に入り、初の世界選手権では銅メダルを獲得します。そして、そんな羽生さんに大きく転機が訪れたのは高校3年生の時。世界的な名コーチであるブライアン・オーサー氏のいるカナダ「クリケットクラブ」に練習拠点を移し、指導を受けることになります。これによって才能をさらに開花した羽生さんは、質の良い4回転を2種類成功させ、SP世界歴代最高点を更新。GPファイナルでは2位、そして全日本で初優勝を飾ります。そして、2013年、早稲田大学人間科学部通信教育課程(℮スクール)に進学した羽生結弦さん。大学に進学したタイミングで、ANAと所属契約を交わします。その年のGPファイナルでは、SP世界歴代最高得点を更新し、金メダルを獲得。続く全日本でも優勝した羽生さんは、2014年ソチ五輪に出場します。ソチ五輪では、SPにおいて世界歴代最高得点を再更新し、見事アジア人男子初の金メダルを獲得します!その後も世界選手権優勝を2度経験し、GPファイナルも4連覇。次々と高難度の技や構成にチャレンジし、自身の持つ世界最高得点を更新しつづけました。まさしくフィギュアスケート界の貴公子であり、他のスケーターとは次元の違う、絶対王者となったのです。  ルックスにも恵まれ、その類まれな才能を生かし、確かな技術力と繊細さを氷上で操る、羽生結弦さん。その演技は神々しく、世界中のスケーターが彼を尊敬すると言います。そんな羽生結弦さんのこれからのさらなる活躍に、日本人として大きなエールを送りたいですね!!  このサイトはスパムを低減するために 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