ずっと前からエルトン・ジョンの音楽は我々の文化、我々の共通言語の一部になっている。デクスター・フレッチャー監督による『ロケットマン』(主演はタロン・エガートン、脚本はリー・ホール)は、彼の伝説や、愛され続ける彼の楽曲に光を当てるだけだ。 Published onByTiny dancer  a、スケールの大きな活動を続けてきた。現在彼は3年規模の壮大な引退ツアーを行っている最中だが、現在は銀幕にも登場している。近眼でシャイなレジナルド・ドワイト少年がいかにして世界的なミュージシャンになったかを描く映画『ロケットマン』の公開は、彼の不朽の名曲の数々をさらに広く知らしめることになるだろう。そうしてエルトン・ジョンの代表曲はこれからも聴き継がれていくのだ。以前からエルトン・ジョンの音楽は我々の文化、我々の共通言語の一部になっている。デクスター・フレッチャー監督による『ロケットマン』(主演はタロン・エガートン、脚本はリー・ホール)は、彼の伝説や、愛され続ける彼の楽曲に光を当てる。uDiscoverでは、彼の音楽の魅力を再認識できるエルトン・ジョンの名曲ランキングを作成した。 エルトンの過小評価されたアルバムのひとつ『Blue Moves 上品なアコーディオン・ソロは、カール・フォルティナによるもの。2002年のエルトンとヴォーカル・グループ、ブルー(Blue)のコラボ・ヴァージョンはイギリスのチャートで1位となったほか、エルトンの数々のヒット曲はほかの誰にも劣らないが、半世紀に亘りアルバムを作り続けてきた中で、シングル・カットされなかった名曲も数多くある。バーニー・トーピンがニューヨークの街に抱いた印象を歌詞にしたこの曲はアルバム『Honky Château』に華を添えただけでなく、エルトン自身のお気に入り曲のひとつでもある。また、同曲の歌詞に登場する「Spanish Harlem」とは、ベン・E・キングとアレサ・フランクリンという、エルトンとトーピンにとってのソウル界のヒーローふたりが歌った曲名であり地名でもある。エルトンはアルバムのリリース前の1972年1月、ロイヤル・フェスティバル・ホールでこの曲を初披露。2018年になっても、ラスベガスのシーザーズ・パレスで行った『Million Dollar Piano』ライヴで演奏している。 1970年代前半のエルトンはハイペースで作品を発表していた。アルバム『Don’t Shoot Me I’m Only The Piano Player (ピアニストを撃つな!)』のリード・トラックとしてノスタルジックなロック・ナンバー「Crocodile Rock」をリリースしたのも、『Honky Château』からの2枚目のシングル「Honky Cat」がリリースされたたった3ヶ月後のことだった。「Crocodile Rock」はエルトンが初めて全米1位を獲得した楽曲としても重要だ。それも全米シングルチャートから、 1994年の壮大なディズニー映画『ライオン・キング』向けにエルトンが手がけたサウンドトラックは、同年だけで500万枚を売り上げてアメリカの映画史で最も売れたアニメーション映画のサントラ盤になった。やるときは徹底的にやるという彼の性質がよく表れたエピソードである。作詞を担当したティム・ライス (彼はその年にイギリス王室から叙勲され、エルトンは4年後に叙勲されている)もエルトンの生産性の高さには驚くばかりだったという。ライスがある日の午後2時に歌詞を渡すと、その1時間半後には見事なメロディがついたデモが仕上がっていて唖然としたらしい。 正当な賞賛を受けたアルバム『Songs From The West Coast』からグラミー賞にもノミネートされた1曲。エルトンの名曲の進化を感じられる楽曲だ。トーピンが自分自身を投影した痛切なほど正直な歌詞は、エルトンのシンプルな演奏としっかり繋がっている。さらに俳優のロバート・ダウニー・ジュニアが出演するビデオが、その世界をうまく可視化している。同曲でエルトンは久しぶりにイギリスのチャートのトップ10圏内に返り咲いた。カントリー音楽をテーマにした2018年のトリビュート・アルバム『Restoration: Reimagining The Songs Of Elton John And Bernie Taupin (RESTORATION)』ではクリス・ステイプルトンがこの「I Want Love」をカヴァーしている。 アルバム『Goodbye Yellow Brick Road (黄昏のレンガ路)』からのファースト・シングル。エルトンのキーボードとデイビーのギターが両者一歩も譲らず進んでいく代表的なロック・ナンバー。闘争的で派手なサウンドは、暴力沙汰が多かった60年代のパブやクラブなどの夜の喧騒を描いたトーピンの歌詞にピッタリである。同曲で初めてイギリスのロックンロールらしい歌詞を書こうと思ったと、トーピン自身がのちに明かしている。 エルトン・ジョン・バンド名義の1曲で、バリー・ホワイトのヒット曲を手がけたことで知られる売れっ子のジーン・ペイジが見事なオーケストラ・アレンジを施している。「Philadelphia Freedom」は、エルトンに宿る先天的なソウルフルさが顕著に表れた楽曲だろう。同曲はエルトンの友人でテニス界のスター、ビリー・ジーン・キングに向けて書かれた。彼女は男子選手のコーチを務めた女子選手の先駆けとなり、テニスのプロ・チーム、フィラデルフィア・フリーダムズを率いた。 ザ・バンドの明確なアメリカらしさはエルトンとトーピンに大きな影響を与えたが、アルバム『Madman Across The Water』に収録されたこの曲の名前は、同曲はイギリスでシングルにはなっていないが、ほかの大ヒット曲と並んで1970年代前半のエルトン・ジョンの作品を代表する曲である。エルトンもこの曲を気に入っており、夫のデヴィッド・ファーニッシュとの息子のフル・ネームは、ザッカリー・ジャクソン・リーヴォン・ファーニッシュ・ジョンと名付けた。 知られているように80年代のエルトンは、精神のバランスを崩し生死に関わるほどまでになっていた。それでもこのような楽曲を世に送り出していたことで、ポップ・ミュージック界の砦としての地位は揺るがなかった。「Guess That’s Why They Call It The Blues」は、エルトンが原点回帰を果たした名作『Too Low For Zero』からのファースト・シングルで、アメリカで久しぶりのプラチナ・シングルに認定された。すばらしいハーモニカ・ソロにはスティーヴィー・ワンダーを迎えている。 エルトンが初めて全英1位を獲得した楽曲 (ソロ・アーティストとしての初ての1位獲得曲はあとで登場する)が「Don’t Go Breaking My Heart」だった。エルトンのほかの名曲と比べると重みに欠けるように聴こえるが、彼のキャリアの中でも人気の高い1曲だ。キキ・ディーとのヴォーカルの化学反応が聞きどころだが、彼女はエルトンの古くからの友人というだけでなく、彼が設立したロケット・レコードに長らく在籍したアーティストでもあった。2019年3月、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた2夜連続公演の初日には、キキもステージに駆けつけた。 この感動的な1曲はトーピンによれば「僕らが書いた中で一番誤解されている曲」だという。実際は、ベトナム戦争の帰還兵が以前の生活を取り戻そうともがく内容だ。勘違いによってその情緒を理解していないファンがいたとしても、「Daniel」は全米チャート2位まで上昇した (首位獲得を阻んだのは エルトンとトーピンの作品で当時最も自伝的な性格を持っていた『Captain Fantastic & the Brown Dirt Cowboy』に収録されている重要な1曲。同曲はエルトンとトーピンが同居していた1968年に、エルトンが半分本気で起こした自殺未遂が題材になっている。下積み時代の彼は、当時の恋人との不幸な関係に気を病んでいたのだ。歌詞の中で彼を救う「シュガー・ベア」とは、彼がかつて在籍したブルーソロジーのリーダー、ロング・ジョン・ボルドリーのことである。アルバム『Captain Fantastic & the Brown Dirt Cowboy』では、1967年のエルトンとトーピンの出会いから、1969年の『Empty Sky (エルトン・ジョンの肖像)』のレコーディングまでのふたりの物語を描かれている。 エルトンはチャート・アクションへの執着を自認している。そんな彼に自慢したい出来事を聞けば、今でも彼は「Bennie And The Jets」が全米ポップ・チャートの1位を獲得しただけでなく、R&Bチャートのトップ20にも入ったことを挙げるだろう。実際、この曲がシングルになったのも、デトロイトの黒人向けラジオ局WJLBのリスナーからのリクエストが殺到したことがきっかけだ。エルトン・ジョンの代表曲であり続ける同アンセムは、1985年のライヴ・エイドを含め、文字通り何千もの彼のステージのハイライトになってきた。 エルトンとトーピンの最強の協力関係は一見苦労なく映るが、アルバム『Too Low For Zero』に収録されている「I’m Still Standing」は、ふたりの復活を示した楽曲だ。それは彼らの私生活にも言えるし、すでにパンクやニュー・ロマンティックなどの台頭を切り抜けてきたエルトンのキャリアにも言えることだ。それは「looking like a true survivor, feeling like a little kid / 真の生き残りに見えても、中身はまるで子供だよ」という歌詞にも表れている。同曲はラッセル・マルケイが監督したビデオが助けとなって、エルトンのことをMTV世代にも知らしめた。 エルトンの名作群の中で、カヴァーも含み2度以上大ヒットした曲はいくつかあるが、これもそのひとつだ。『Calibou』収録の「Don’t Let The Sun Go Down On Me」ついては、ジョージ・マイケルとデュエットしたライヴ・ヴァージョンが1991年にヒットし、イギリスのチャートで首位をマークした。絢爛なオリジナル・ヴァージョンには、 アルバム『Madman Across The Water』のハイライトに数えられる「Tiny Dancer」の評価は、今でも高まり続けており、2018年には米レコード協会によりトリプル・プラチナ・シングルに認定された。エルトンも感謝を示しているように、この曲の人気が再燃したのは2000年のキャメロン・クロウ監督作『あの頃ペニー・レインと』の劇中で目立って使用されたことが大きな要因だ。歌詞の題材はトーピンが初めてアメリカを訪れた1970年秋の実体験で、そのときに彼らが降り立ったのは西海岸だった。 英米両国で人気が出始めた頃、エルトンはイギリスで発表するシングルが次々とヒットすることにプレッシャーを感じていた。そんな中で発表したのが大ヒットを記録した「Rocket Man (I Think It’s Going To Be A Long, Long Time)」だった。宇宙計画に世の中が湧いた時代の潮流をこのシングルがいかにうまく捉えたかを実感するのは、若いリスナーには難しいだろう。同曲はジョン・ヤング船長率いるアポロ16号が、史上5度目(最後から2番目)の月面着陸を果たそうとする頃にリリースされた。 自作のチャート・アクションに無頓着なアーティストもいるが、エルトンは違う。「Sacrifice」でソロ・アーティストとして初めてのイギリスのヒット・チャートで首位を獲得したとき、彼は人生のハイライトのひとつとしてこの偉業を喜んだ。最近では忘れられがちだが、同曲はそのリリースの7ヶ月前に一度リリースされており、そのときは55位止まりだった。そのことを知れば彼の喜びも理解できるだろう。同曲ではエルトンが弾くローランドのデジタル・ピアノと、円熟した大人の感情を表現したトーピンの歌詞が印象的。後者についてトーピン自身は、本ランキングの1位として後述する初期の楽曲とは「百万マイルほどもかけ離れている」と語っている。 エルトンとバーニー・トーピンがマリリン・モンローに捧げた「Candle In The Wind」は、1987年にもライヴ盤『Live In Australia (エルトン・スーパー・ライヴ 〜栄光のモニュメント〜)』に収録されたヴァージョンがヒットしている。その後の1997年、ダイアナ元英皇太子妃の逝去という悲しい出来事が起きた際には、歌詞を改めてリリースされた。ジョージ・マーティンがプロデュースしたこのヴァージョン(この1997年版の邦題は、「キャンドル・イン・ザ・ウインド〜ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」に改められている)は、全世界のレコード業界の歴史で最多の売り上げを記録したシングルになった。オリジナル・ヴァージョンはアメリカでシングル・カットされなかったものの、イギリスでは不朽の名作『Goodbye Yellow Brick Road (黄昏のレンガ路)』からのサード・シングルとして発表。以後、世界中で愛される楽曲になった。 エルトン・ジョンの名曲ランキングの第1位にふさわしいのは、やはり彼にとって初めてのヒット曲となった「Your Song」だろう。この曲は、彼の存在を世に知らしめ、ライヴでもどの曲より演奏されている。心を揺さぶるほどの純真さは、同曲を書いた1967年当時のトーピンが弱冠17歳 (エルトンは20歳)だったことから来ている。トーピンは、下宿していたエルトンの母の家で朝食を食べながらこの歌詞を書き、エルトンは20分でそれにメロディをつけた。こうして名曲が生まれ、世界最高の作曲家たちのキャリアがスタートしたのだ。 Written By Paul Sexton 映画『ロケットマン』、ディズニー映画『ライオン・キング』(8月9日)公開に合わせて スティングの遊び心溢れる『Brand New Day』と自信が漲る『Sacred Love』ケイティ・ペリーの楽曲ベスト20:21世紀のポップを形成した名曲たち(動画付)パワーポップの先駆者、エミット・ローズが70歳で逝去。その半生を辿る新型コロナの影響を受け、34年の歴史を誇る英国音楽雑誌“Q”が廃刊を発表写真で振り返る史上最大のチャリティ・イベント、ライヴ・エイド:ロック時代を象徴する歴史的写真クイーンによるライヴ・エイドでの21分間の伝説的パフォーマンス:「僕らの人生最良の日でした」マーティン・スコセッシが監督するニューヨーク・ドールズのデヴィッド・ヨハンセンのドキュメンタリー映画の制作が発表ザ・ビートルズのオーラを彷彿とさせるリンゴ・スターのソロ・アルバム『Ringo』レゲエのプロテスト・ソング傑作11曲:社会/国/権力/戦争/大麻規制/差別について声を上げた曲たちガンズ・アンド・ローゼズのメンバーによる『Appetite For Destruction』発売当時の楽曲解説オリジナル版挿入曲への愛とリスペクトが漂う仕上がり『メリー・ポピンズ リターンズ』のサントラの魅力とは? by 長谷川町蔵今泉圭姫子連載第21回:『ボヘミアン・ラプソディ』に続くか、モトリー・クルーの伝記映画『The Dirt』

2019-09-06 2020-06-22 Elton John 歌詞和訳, 気になるあの曲(CM,映画,etc).

映画「ロケットマン」でエルトン・ジョンを知りたくなったので、使用されている曲や背景を書き残しておきます。自伝ではなく、父スタンリーは飛行中隊長ということもあり、家に居ないことも多く、1962年にスタンリーとシェイラは離婚します 。その後エルトンはシェイラと祖母アイヴィと暮らします。エルトンにピアノを弾くことを勧め、王立音楽院についても「こんなチャンスは然う然う訪れるものじゃない」とエルトンの背中を押します。エルトンの父、スタンリーのレコードコレクションとして、カウント・ベイシー のレコードが劇中に登場します。4歳でピアノを弾き始め、11歳で王立音楽院に合格します。劇中ではモーツァルトの「トルコ行進曲」を演奏。ピアノ教師によると、一度聴いただけのヘンデルの曲を完璧に聞弾くことができたとのこと。王立音楽院には、毎週土曜日に18歳未満を対象とする「青少年のための教室」(a junior department)も開かれ、世界各国の音楽的な才能に恵まれた青少年を集めている。イギリスの音楽学校の児童教室の中で、最も需要の多い機関として有名である。青少年部門の卒業生に、エルトン・ジョンがいる。幼少時代のシーンの曲少年期のシーンの曲2001年のアルバム「Songs From The West Coast」の収録曲で、シングルとしてリリースされた曲です。ロイヤルメールの広告にも使用されました。2002年、「I Want Love」はグラミー賞のBest Male Pop Vocal Performanceにノミネートされました。「I Want Love」は青年期のエルトンと父スタンリーとのシーンに使われています。オックスフォード大学のオックスフォード・ユニオンの席で、次のように語ったことがVOGUEに紹介されていました。「父は僕に愛していると一度も言ったことがないし、抱きしめてくれたこともないんだ。」 しかし、エルトンの異母兄弟であるジェフ・ドワイトは、劇中の父の描かれ方について次のように語っています。「僕の中にエルトンに対する悪い感情はないんだ。それとはほど遠いものだ。彼のことは愛しているし、ただ、二人の道が別の方向へ進んでしまったということなんだ」 1962年、エルトン15歳の時にスタンリーと シェイラ は離婚します。 1956年発売のエルビス・プレスリー の1st アルバム。エルトンが「ロックンロールになりたい」とリーゼントヘア(エルヴィスヘア)にしたキッカケとなったアルバムです。曲は「ブルー・スエード・シューズ」王立音楽院での演奏シーン、リーゼントヘアで演奏するエルトンに不振な表情の先生が印象的です。王立音楽院に通う少年が酒場でロックンロールを歌うシーン、青年となり遊園地で踊るシーン、そして「ブルーソロジー」として演奏するシーンへと、エルトンの成長と共に、場面は移り変わります。エルトン・ジョンはソロデビューする前、1964年にブルーソロジーというブルーソロジーは、演奏を見ていたソウルのプロモーターに、アメリカからイングランドにくるソウル・ミュージシャンのバックバンドを1人週2ポンドでしないか?と声を掛けられます。ソウルミュージシャンのバックバンドで演奏の腕を上げます。ソウルミュージシャンから曲を書くことと、20歳の時に芸名を「エルトン・ジョン」とします。劇中では、ビートルズのジョンから取ったような作りになっています。レコード会社へ自分を売り込みに行き、作詞家希望であるバーニー・トーピンの歌詞を手渡され、それに曲を付けます。ウィリアムズはNME誌に運命的な広告を載せた。それに応募したのがレジナルド・ドワイトと、ポップ音楽の作詞家志望だったバーニー・トーピンであったバーニー・トーピンの詞に曲を付けたエルトンは、そして、ホンキ―キャットを書き上げます。1968年、エルトンとバーニー・トーピンは、レイ・ウィリアムズ(ディックの部下)の押しもあり、週に10ポンドで ディック・ジェイムズのDJMレコードと契約します。エルトンとバーニー・トーピンで借りた部屋の管理人アラベラからアプローチされたエルトンは、彼女に興味なかったことを告げると激怒され、部屋を追い出されてしまいます。2人はエルトンの実家に居候となり、アメリカ初上陸のシーンの曲Your Songを聴いたディック・ジェイムズは、名曲であり伝説のライブハウス、トルバドールは老舗中の老舗ニール・ダイアモンドやビーチボーイズらが客席にいることに興奮するシーンがあります。トルバドールで演奏するシーン。逆立ちして浮遊するシーンは実際のコンサートシーンからです。トルバドールでのライブの後のパーティーシーン。成功したものの不安がある様子が映し出されます。パーティーで、ジョン・リードと出会い関係を持つシーンからこの曲が流れ、トルバドールでのライブの反響により、アメリカの滞在を延長することとなるシーンまで。未来が輝きだした様子がわかります。派手なパフォーマンスをするライブ場面から、様々なメディアに取り上げられるシーンでこの曲が流れます。 1976年にリリースしたデュエット曲で、 デュエット相手のKiki Dee (キキ・ディー) は、エルトンが立ち上げたレ-ベル「ロケットレコーズ」に最初に所属した女性シンガーとのこと。(Elton John-Don’t Go Breaking My Heart 歌詞の意味と和訳より)ジョン・リードと再会から恋人となり、ジョン・リードがマネジメントにより成功する様が描かれています。ジョン・リードと個人マネジメントを組み、ディック・ジェームスとレイ・ウィリアムズはエルトンから離れます。再婚した父に会いに行き、 スイスの老舗「ショパール」の 高級時計をプレゼントします。父親にサインを頼まれるアルバムは1969年発売の 「Empty Sky(エンプティ・スカイ)」 です。異母兄弟である弟を抱き上げる父の姿にエルトンは涙します。母は既にエルトンがホモセクシュアルであることをわかっていたことを告げます。また劇中、少年時代のエルトンが女性誌を見ようとすると、父が止めるという場面があります。父親も気づいていた様子が伺えます。父との出来事の後、酒や薬に溺れることになります。 エルトン・ジョン(68)は今はなき父親から拒否されたことが薬物と酒にまみれる悪循環に陥った原因だと考えているそうだ。 多量の薬を飲んで、プールに飛び込むシーン。名声とお金はあるが、孤独を感じているエルトンの心情が映し出され、ドジャー・スタジアムで歌うシーンまで。エルトン・ジョンは、1975年にドジャー・スタジアム公園を行っています。 この頃、ジョン・リードとの恋人関係は解消し、バーニー・トーピンは暫く休みたいと提案します。「一生独りの人生を選んだと自覚していることを祈るわ、誰からも本気で愛されることはない」と母から言われた回想シーン。僕のことをわかってくれないと、ジョン・リードと言い争います。 70年代にバイセクシャルをカミングアウトしますが、1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニアの女性レネーテ・ブリューエルと結婚します。オーストラリアで結婚式をあげ、1988年に離婚しています。(vougeより)僕はただいい夫になりたかったが、本当の自分を否定していたために、妻を悲しませてしまった。そして、自分自身にもこの上ない罪悪感と後悔をもたらしたエルトンのスキャンダルでお母さんはイギリスにいられないと語る義父。あなたの母親で私がどれだけ失望してきたかと語る母。しばらく休みたいと言い離れたバーニー・トーピンと僕を見捨てたというエルトンの言い争いの場面。そして薬に頼り、心臓発作で倒れます。更生施設のカウンセリングで改善している様子で話すエルトン。そして音楽セラピー室で、バーニー・トーピンの歌詞に曲を付け、復活します。エルトンは28年間禁酒を守り続けました。リハビリを終え、エイズ基金を設立、バーニー・トーピンとは共作を続けています。2005年、映画監督でプロデューサーのデヴィッド・ファーニッシュとパートナーシップを結び、2014年に結婚。2人の息子ザカリーとイライジャの子育てに専念しています。エンドロールの曲です。情報が古い場合があります。ご利用になる場合は内容をご確認下さい。情報が古い場合があります。ご利用になる場合は内容をご確認下さい。 エルトン・ジョン映画「ロケットマン」でエルトン・ジョンを知りたくなったので、使用されている曲や背景を書き残しておきます。自伝ではなく、ミュージカル・ファンタジー であるとのこと。出生名レジナルド・ケネス・ドワイト(Reginald Kenn